田舎暮らしになって、生活に緩急がつかなくなったからかな、とふと思ってみたり。うーん。
DualCore x2 で Quad っつーのも何かなー。
半年くらい経ったら勉強してみるかな。1.5 くらいか ?
いやもちろん食べることは当り前だが、ゴミがゴミ箱に捨てられもせず箸付きビニール付きでシンクに打ち捨てられてるのを見てちょっと眩暈が。私が家に入るってことは知っているんだし、もうちょっと何とかならんもんかのう。
そういえば、私がウェブを漁りはじめた当初は、この「コラム」というのがウェブサイトの 1コンテンツであったことが多かったように思う。私がまわっていたサイト群がたまたまそうであったという可能性もあるが、多くのサイトは「トップページ・日記・掲示版・コラム *1 +α」という構成だった。今現在では、コラムという表記で 1コンテンツが形成されているサイトを見かけることはあまりない。
原因を考えてみると、これはもういわゆるウェブ日記*2が台頭した影響ということで間違いはないだろう。自らの思いを簡単な形で示せる日記に、コラム上で伝えたい思いを載せる。必然的にコラムで書かれるべき内容はなくなり、コラムというコンテンツ自体が必要なくなってしまったわけだ。
それでいいのだろうか ?
もちろん、本人がそうであるべきだと思っているのであれば、それでいいのだろう。ただ、日記というのは基本的に書き捨てるものであって*3、その思いを深く掘り下げていくには不向きなものだ。ある意味では、手順がシンプルになればなるほど、それと同時に思いのある部分もスポイルされてしまう。単純な日々の記録や掘り下げるまでもない感情などを書くには日記は適しているのかもしれない。
しかし、物事には当然向き不向きがある。報道記事を書くことが得意な人もいれば、日々の感情からエッセイを書くことが得意な人もいる。また、読んでいて終わりが見えないほどの長編小説を書くことが得意な人もいる。今の高度に複雑化された日記システム / blog システムはウェブを通じて物事を発信する方法としてはとても便利なものかもしれない。シンプルで、スピーディで、更にいえばコラボレイティブなのかもしれない。しかし、そうではない発信形態もあっていいのではないだろうか。
起こった出来事をただそのままに、即日発信するのではなく、目の前のスクリーンにうつる文章をうんうんうなりながら何日もかかって修正するのもまた楽しいものである。ウェブ日記によってそれがなくなってしまうとしたら、それはとても残念なことだ。また、もしそんな経験をしたことがない人がいるならば、古き良き時代にたちかえり「コラム」を書いてみるのもいい経験になるかもしれない。
原因を考えてみると、これはもういわゆるウェブ日記が台頭した影響ということで間違いはないだろう。
自らの思いを簡単な形で示せる日記に、コラム上で伝えたい思いを載せる。
あまりよろしい文章にはならなかったなぁ。とりあえず次いこう。
うーん、X あげないでいると止まらないみたいだなぁ。 2年前に build した XFree86 4.3 なんつー骨董品だし、これが原因なのか ?
何回くらいまでいけるだろうね、と思いながら 2日目のお題を検索。はい、Yhaoo! きっずで、お題は「カテゴリ」でいきましょう。
例えば、一人ではちょっとさばききれない作業があるとする。その作業を多人数で分担することにする。誰にどの作業をふるべきか ? 一般的な考えでは、得意分野の作業を割り当てるというのが取るべき手段だろう。各作業を どのような分野の作業か ということを考えながらカテゴライズし、そしてそのカテゴリーの作業が得意な人に作業してもらう。この考えは効率から考えれば真っ当な方法であり、多くの人の賛同を得られると思う。ある物事をカテゴライズし、そしてまた ある人をカテゴライズする ことで、最も効率の良い作業を行うわけだ。
上記の方法は今までの世界である一定の成果をあげてきたわけだが、最近ではこの「カテゴライズする」ことが、ある分野では限界に達してきている。カテゴライズすることは物事を単純化することと言えるが、この「物事」が単純なものではなく多くの要素を含むものであった場合、それをカテゴリ分けすることはその「物事」をそのカテゴリに縛り付けることになってしまう。
例えば、Unix にも Windows にも深い理解を持っている人間を、Unix 関係の部署に配属するとする。そうするとその人の Windows 関係の力というのは無駄になってしまう。Windows 関係の部署に配属した場合も全く同じことが起こる。
どうすべきか。
コンピュータが普及し、大量のデータを扱うことになった情報分野では、「全文検索」という答えを出した。データ自体をカテゴリに縛り付けることを止め、必要な時点で必要なふるいを作り、全てのデータをふるいにかける。
我々人間に対するカテゴリ分けが上記と同じ進化を遂げるとすると、それはつまり部署をなくしてプロジェクトごとに人員を選抜する、ということになる。そんな方法論が一般的になる日は来るのだろうか ? この方法論は幾つかの企業で試験的に行われていると聞いているが、その成果はあがっているのだろうか ?
現段階では、まだ何も言うことはできない。
しかし、もし我々が我々自身を規定しているカテゴリから離れることができるのであれば、それは我々が何の束縛もなしに解き放たれることを意味する。全ての力を出し切ることができるようになるかもしれないし、あるいは自分には何もないことを発見することになるのかもしれない。いずれにせよ、その場所で、あなたは古くて新しいあなた自身に出会うことになるだろう。
1000 字ルールに縛られて、中盤から結論までの流れがすごくあやしくて無理矢理な感じ。前置きはもっと短くできたはず。一昨日のもそうだったが、文章が長文を意識して冗長になっている気がする。それがスタイルなのだと言えば、そうなのかもしれないが。
最近ではこの「カテゴライズする」ことが、ある分野では限界に達してきている。
わかりにくいし、美しくない。この他にも文章の流れとか日本語としてどうか、な部分が幾つかあり。
お題を検索。はい、お絵描きさんねっとわ〜くで、「交流の為のサイト」でいきましょう。
私がインターネットの世界へ入りはじめた頃、またそれよりも前に NIFTY-Serve のフォーラムに出入りしていた頃から、ネットワークはコミュニケーションのためのツールだった。「ほーむぺーじ」という言葉が流行り出した頃は掲示版とウェブチャット*1がその役目を担い、現在では blog や SNS、MMORPG がその役目を引き継いでいる。技術色の強いサイトでは、今でも ML と IRC がコミュニケーションの主体だ。
ただ、私自身に限って言えば、これらのツール群を利用することはほとんどなくなってしまった。2ch を除けば掲示版に書き込むことは皆無だし、昔楽しんでいたインスタントメッセンジャーやウェブチャット*2, IRC, ML には全く出入りしなくなった。wids.net のいかなるコンテンツにもコメント機能は付けていないし、SNS や MMORPG はちょっと触れただけで辞めてしまった。
これは、私がネットワーク上で H.Miyamoto という実名を示すようになったことと無関係ではないような気がする。 4年くらい前までは(今でもシグネチャにいれている) Yuukis という名前でネットワークに関わっていたが、あることをキッカケにこれを止めてしまった。今思い返してみれば、私はその名前で本当に色々なことをやっていた。もちろん、当時も H.Miyamoto という実名の私は存在していたわけだが、その実名からは考えられないようなことを、この Yuukisくん はやってのけていた。しかしそれを繰り返すうちに、私自身はどんどんすり減っていっていたのだと思う。一言で言ってしまえば、疲れたのだ。
日本語でのコミュニケーションが不得意な人が英語でのコミュニケーションも不得意なように、普通の生活でコミュニケーションが不得意な人は、ネットワーク上でもコミュニケーションが不得意なままだ。ネットワーク上でのコミュニケーションでは、普段出せない自分が出せる。 インターネットが大衆化するにつれ、その手の話は結局幻想でしかなかったことが証明されつつある。
私は実名の私になり、Yuukis は可愛い女の子とともにどこかへ消えてしまった。あるいは、私は Yuukis でい続けることもできたかもしれない。しかしそれは今言ったところで詮なきことだ。私は私としてやっていくしかないし Yuukis の隣にいた人はもういない。
願わくば、当時の記憶が綺麗なセピア色に変わりますように。
重い腰をようやくあげてみた。/etc/make.conf から X_WINDOW_SYSTEM=xorg にして、/usr/ports/UPDATING 通りの構築方法で install。
# pkg_delete -f /var/db/pkg/imake-4* /var/db/pkg/XFree86-*
# cd /usr/ports/x11/xorg && make install
# pkgdb -F
途中で disk full くらって stop した以外は問題無し。
起動してみた感じは特に XFree86 4.3.0 と変化なし。Gnome とか KDE とかを入れていると、何か変わるんだろうか。まぁ、私の環境下では特に何もないみたいだ。kinput2 とかがちょろっとおかしくなってたりするけど、ま、許容範囲か。
これは、私がネットワーク上で H.Miyamoto という実名を示すようになったことと無関係ではないような気がする。
文章的なことで「あれ?」と思うのはこの 1点くらいか。ただ、1000字以内で表現するには題材がメロウすぎるような気も。色々なところで破綻しているというか、駆け足すぎるというか。
事務屋である私にとって、サービスとは事務の仕事を行うことだ。メールの送受信や原稿タイプの代行、電話対応、顧客対応、ある種のトラブル対応、その他雑多な事務仕事の処理が、事務屋としての私のサービスだ。
カフェのマスターである私にとって、サービスとは客にコーヒーをお出しすることだ。豆をミルで挽き、サイフォンで抽出し、カップに注いで出すことが、カフェのマスターである私のサービスだ。
サーバ管理者である私にとって、サービスとはサーバを管理することだ。サーバを構築し、健全な状態に保ち、万が一起こってしまったらトラブルを早期に解決することが、サーバ管理者としての私のサービスだ。
では、よいサービスとは ?
事務屋である私にとって、よいサービスとは顧客が望むことを望む通りに行うことだ。
カフェのマスターである私にとって、よいサービスとは顧客が望むことを望む通りに行うことだ。
サーバ管理者である私にとって、よいサービスとは顧客が望むことを望む通りに行うことだ。
もちろん、現実はそんなに簡単ではない。支払われる対価があってのサービス、色々な事情があっての不完全なサービス、力及ばずサービスになっていないサービス。いずれも、よくある話だ。
しかし、例えそんなことがあるにせよ、私はサーバでありたいと思うし、また自分が顧客であった時には、サーバに色々なものを与えてもらいたいと思う。プロバイダではなく、サプライヤではなく、サーバでありたいし、またサーバであってほしいと願っている。
Server、その日本語訳は奉仕する人。
Service、その日本語訳は奉仕。
プログラミングとか、やってみたいんですけど。
職場の同僚にそう言われたので、C / Perl / Ruby の入門書をとりあえず投げつけておく*1。しかし、私がプログラムを学んだのは Web があればこそという感じがするので、Web なしでの学習方法はよくわからんのだよなぁ。うーん、どうするべきか。
1, C も Perl も入門書だけは持ってるんだよなぁ。使わないから全然おぼえないが。
今日はお休み。
1 subscribers
らしい。どこの誰だかわからないけど、行動がはやいなぁ。
xorg になっても変わらん。うーん、 X あげると発症するってのは、load avg. が 1回でもあがるとどっかがおかしくなるみたいな感じなのかな。現在のろのろと進んでいる部屋の片付けが終わったら、ML 読みを再開して HEAD にあげたいものだ。
Xorg.log を見ると、mga_hal load fail な WW が。
(WW) Warning, couldn't open module mga_hal
まず、matrox から Linux 用のを落としてきて、6.8.2 の mga_hal_drv.o を /usr/X11R6/lib/modules/drivers/ へコピー。結果、X を shutdown すると、同時にディスプレイへの出力も停止に。orz それならばと mga_drv.o の方も、matrox 謹製のものに変えると、時計が 2倍速スタート。orz
ついでに DRI/DRM を有効にしようとぐにゃぐにゃしてたら、どうやっても enable にならんし。DragonFly ML Archives の方を見ると、DragonFly での DRI/DRM はまだまだ熱い話題みたいな感じだし。
結局元通りに直したが、何か時間の浪費だったなぁ。DRI/DRM については corecode@ がちょこちょことやってる感じだけど、陽があたるのは何時頃になるんだろう。
購読してる ML の整理中。unsubscribe 連発中。
以前はこの日記から切り出して更新していたんだが、次回からはそれを止めるため色々と調整中。ま、lily1.x はファイルの扱い方がかなりシンプルだから、こういうごそごそをやるのも簡単で大助かり。コンパクトだし、非常にいいソフトウェアだと思う。lily2 が開発中だそうで、それにも結構期待してたり。
言葉遊びの類としては、悪くない。ただ、600 字〜 1000 字って意外に難しいねぇ。
お題を検索。はい、NHK 週刊こどもニュースで、「テレビ」でいきましょう。
実は、今月末に私の勤めているところが TV で取り上げられることになった。時間は 30 分、取材は約 3 ヵ月前から行われており現在は放映までのカウントダウン中だ。私自身が映っているかどうかはさだかではないが、例え映っていたとしても秒単位だろうし、そもそも地方 TV なので特に問題ではないと考えている。
取材を見ていて気付いた点が 2 つ。
まず 1 つ目、彼(女)らは 取るべきところをきちんと押えていて、無駄なところは取らない という点。カメラをまわしていた時間は 3 時間もなかった気がするが、押えるべきところはきちんと撮影をしていた。もちろん、プロなのだから当り前といえばそれまでだが、ずっとカメラを回し続けがちな素人とは、非常に対象的にうつった。
2 点目、彼(女)らは、その代わりにその場所の雰囲気を敏感に肌で感じることを大事にしているという点。普通に会話を行っているときでさえ、彼(女)らは「ここは映像に使えるかどうか」を考えながら会話をしているようだった。また、それが、1 点目に繋がっているかもしれない。
既存のメディアである新聞、雑誌、書籍、そしてテレビと対称的に語られることが多い Web だが、そういった既存のメディアは Web が誕生する以前から、情報を伝えるために存在し、またその方法論を洗練させてきた。もちろん、Web に彼(女)らが洗練してきた方法論をそのまま当てはめることはできない。しかし、一瞬を切り取ることに全てをかけてきた彼(女)らの方法論を、私達 Web に携わる人間はもう少し学んでもいいのかもしれない。
準備は完了。で、いつから再開しよう。
出るらしい。早いねぇ……って人事じゃなかったんだ。M+ の Ports を更新しないと。6.1 の ports freeze までにはやらんとなぁ。
色々なことが去年 12 月と同じくらいできるようになってきている。このまま準備を進めて、今年の 12 月までには何とか元通りにしたい。Big Wave に巻き込まれてから、約 10 ヵ月で元通りか。まぁ、色々なことがあったけれど、悪くはない状況だ。Big Wave 自体ももう私には笑い話だし、このまままた進んでいければ、と思う。
とりあえず「か」行は制覇したので、ひとまず終了としよう。
最始動。 1ヵ月くらいは書いていなかった期間の知識を集めつつ、細々とやるつもり。いずれにせよ、またあの場所へ投稿できたことを非常に嬉しく思う。
これから digest JP に書かれる文章は、以前と違って Haruka. に同じ内容が投稿されません。必要であれば、あちらもチェックして下さい。また、更新があるのは大抵昼頃です。
学校ホームページのトップページに市立学校の正式名称,校長名,所在地,電話番号・電子メールのアドレス,更新期日,発信した情報の著作権の帰属先を明記すること。併せて,校長の承諾なくリンクを設定することができない旨を明記するものとする。
「リンクを設定できない」のは学校側のウェブサイトからのようにも解釈できるがなぁ。まぁ、いずれにしろ、wids.net からはそんなん無視だし、仕事でやってる時はこんな危ないとこにリンクなんて貼らん*1し、特に不自由はないかな。
子供達に対する影響が云々
なんてのは、あまり心配しなくてもいいような気が。ここらへんの文句が幅をきかせていた数年前ならともかく、今の blog/Web 日記が雨後の竹のように出てきている現在、こんな文句を信じたまま成長する子供なんてあんまりおらんよ。子供達だって馬鹿じゃない。
しかし、滋賀県総合教育センター情報教育係がまとめたインターネット利用規約は笑えるなぁ。
インターネットは正しい情報(じょうほう)ばかりとは限(かぎ)りません。間違(まちが)った情報(じょうほう)がまじっている場合もあります。
仰せの通り。 :)
1, 各地の少中学校のウェブサイトにリンクを貼ることはたまにある。